こないだの

「ゲーマーさんはゲーム自体にゲーム性を求めすぎ 」ってのは知り合いの自称コアゲーマーが「音ゲーはゲームじゃない」とか抜かしやがったのでそれに対する反発。自分(あるいはその派閥)の趣味傾向として「○○はかくあるべし」とか言ってる分には拘りがあっていいと思うけどそれを全ての人に共通する規範として他者に押し付け批判するような事いう奴は邪魔。消えろと思う。でもその個人の考えをどうにかしようなんてエネルギーはないし、自分を変える気にもならんので相手の発言意図とかを勝手に想定して「見下す」事でなんとかストレスを解消しようとする。こういう生き方。この相手を変えるだとか、自分を変えるってのは攻殻の少佐が言ってた「世の中に不満があるなら自分を変えろ」あたりに強い影響を受けている感じがする。解釈のほうは村上春樹の「風の歌を聴け」かな「少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える」これをまんま真に受けてなんかしようってつもりじゃないけど、表面的な部分は観測できてもその他人の思いの部分ってのはこっちがどんな風に受け取るかに掛かってるわけだ。まともに接客したつもりなのにふざけてるってとられたりする事もある。僕はなんかバイト先の女性二人にとても嫌われているみたいだけど片方は普通に接しようとして嫌いなんだったら近寄らなきゃいいのになって思う。でもその表面的な部分の気遣いの方を評価したい、と僕は思う。話ずれるなあ、まあいいけど。あーもういいや。だから嫌な事とか起きてもできるだけ解釈を変える方向で自分のストレスを軽減しようとするってのが僕のやり方。例えばヨヨを悪女って言う奴はゲームのヒロインに好きな人の名前入れたり本名プレイしたりする人だと思えばまあショックだったんですね、で僕は済ませることができる。誰でもいいから彼女欲しいって人は彼女よりも実際は結婚願望の方が強くて今まで女性と付き合ったことないから将来結婚して家庭を持つ事ができるかどうか不安だからとりあえず一回でも彼女ができればその不安が軽減されるかもしんないと思って彼女欲しいなとか思ったりしてる、とか前にも考えたけど本当に欲しいとは思っていないでなんとなくいってみてるだけってタイプも居るだろうよ。で収められる。とかそんな感じ。2chとかニコニコ動画のコメントとかでどうしても耐えられないものはNG設定で見ないようにする。こっち側の努力をするしかない。相手に働きかける事の労力と比べたらマシだから。大体相手を変えようなんてのは無駄。まあ他の人がやる分にはしったこっちゃない。まあホントは「しったこっちゃない」なんて思ってなくて変えようとがんばってる人を見ると腹が立ったりする。自分が降りようとする道を進み続けてる人には何か憎しみとか感じる。この辺の感覚からオタクを攻撃してる人は大抵脱オタしようとがんばってる人なんじゃないの?と思ってる。一番執着してる人だ。まあいいや風呂入るので終わる。結局考えようと思った事がまとまんないのでどうしようもないな。